アルプスの山々は銀色に眠る。
元旦の深夜に雪が降ったが翌日には溶け、すっきりとした青空がつづいた三が日。
大晦日。このあたり一帯の教会の鐘がいっせいに鳴り渡り、湖対岸につぎつぎと花火が上がった。
遠くから、歓声が聞こえてくる。
カウントダウンにあわせて開くはずのシャンパンの栓が頑固で、ナッツクラッカーを使ってようやく動かし、午前零時に滑り込む。
テレビでは、チューリッヒの街の様子を中継している。地元スイスの若者たち、アフリカ、東欧、南米などからやって来た多彩な顔が、画面に向かって笑いかける。
地上300メートルあたりで全開する、という仕掛け花火は、今年はなかなかアーティスティックで、面白い演出だった。
湖から噴き上がり、そのまま走り、宙を舞う。オーロラのような幻想的な輝きが闇に現れ、水面を覆う。
光のなかで、恋人たちは抱き合い、ときどきキスをして、また夜空を見上げる。
新しい年。
平和な一年でありますように。
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北ヨーロッパの、さらに北から届いたモミの木。
ドイツ語圏では、24日の朝に、オーナメントを飾りつける習慣がある。
親しい顔が集まると、モミの木の下のプレゼントがかさなってゆく。
やがて、誰かが1本、1本、キャンドルを灯す。
子どもにクリスマス物語を語る父親。賛美歌の楽譜。オルガンの響き。
年ごとに、この夜の光景はわずかずつ変わってゆくが、
和やかでありながらも、どこか厳かな空気が流れている。
メリー・クリスマス!
皆さま、どうぞ素敵な夜を。
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シナモン、ジンジャー、アニス、クローブ・・・
どれも、クリスマスのケーキやクッキーに使うスパイス。中央駅の構内や街に立ち並ぶクリスマス・マーケットから、ホットワインの屋台から。こんな香りが漂っている。
25日から逆算して、4つ前の日曜日からイヴまでの期間を、スイスドイツ語圏ではアドベントと呼び、クリスマスの準備をして行く。みんなそわそわして、どことなく嬉しそうで、日本のお正月の前のような慌ただしさだ。
家族や親戚一人一人にプレゼントを探し歩き、それぞれ違うラッピングをするには、それなりの日にちがかかる。
イルミネーションを灯し、子どものいる家では、大きなサンタを壁に這わせたり。玄関のリース。ポプリもクリスマス・フレーバーのものに変えたが、切り落としたばかりのもみの木の枝に顔を近づけると、ひんやり静かな森が匂う。これも、その辺りに飾るもの。
アドベントのキャンドルは、4本。今年は、11月の最後の日曜日に1本目を灯し、そこから日曜ごとに2本、3本と火が加わり、今日が4本目。
クラシックなものは、常緑樹のリースの上にリボンやデコレーションをつけてキャンドルを立てるが、もう家ごとに違う。好きな色、好きなデザイン。最初に点けるキャンドルが一番短くなってしまうので、高さの違うものでデザインしたりする人もいる。
去年は、一面に木々を敷きつめて大きな青いキャンドルを立てたのだが、今年の気分はかなり違った。
サラバンドがいいかも知れない、と、2長調を選んでみた。チェロのゆったりとした旋律に揺れながら、キャンドルの影をぼんやり眺める。
外は、零下10度。昨夜降った雪の上に、霧の花、フロスト・フラワーがキラキラと輝いている。
もうすぐ、クリスマス。
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毎年、秋から冬にかけて、日本からぽつりぽつりとゲストがやって来る。それも、プロジェクトを終えたから、とか、仕事の区切りがついたから、という、自分にご褒美の旅行だ。ひとり旅が多い。
こういう人々は、要求度は高いが、何をしたいのか的が絞られていて概ねインディペンデントなので、昼間は放っておいても、適当に遊んでいてくれる。問題は、夜の部の充実度となる。
寒い季節ならば、やはりオペラをお勧めしたいので、むしろプログラムに目を通した後からスケジュールを微調整をすることが多い。
湖畔に佇む、チューリッヒ歌劇場。現在、世界のオペラハウスの中で、最も注目されている歌劇場だ。9月から6月まで、ここで上演されるオペラは極めてレベルが高く、切符を手に入れにくい歌劇場としても知られている。
日本では07年秋に、オーチャードホールで、「椿姫」と「ばらの騎士」を上演した。最高のオペラ歌手がずらっと贅沢に並び、大きな話題になった。
1834年に建てられたアクツィエン劇場が前身。当時スイスに亡命していたリヒャルト・ワーグナーの活躍の場となっていた。今でも、大学にほど近い骨董屋さんには、ワーグナーの楽譜がかなり残っていると聞く。
この劇場は、火災で焼失してしまい、その後、1891年に現在のチューリッヒ歌劇場が建設された。
ワーグナーを始め、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、リヒャルト・シュトラウスなど、錚々たる巨匠を次々と起用し、その評判はヨーロッパ中を席巻したそうだ。
座席数は、1100ほど。外観もインテリアも美しく重厚だが、パリやウィーンの歌劇場と比べれば、とても小さい。まるで、可愛いプリンセスのようだ。
しかし、チューリッヒの地の利と経済力は、ここでも大きく働く。しかも、4つの国語を持ち、英語が普通に通じる国。2つ3つの外国語を喋る人はたくさんいるし、スイス人の友人のなかには、ヨーロッパ中、国境を超える度に言語も変えるという得意技を持つ人もいる。
言葉の壁がないというのは、大きなアドバンテージだ。イタリア、ドイツ、オーストリア、そして、東ヨーロッパ諸国など。プログラムごとに、世界のトップクラスの歌手が堂々と顔を揃える。
この街には、それだけたくさんの才能を集中させる条件が整っている。
現総裁アレキサンダー・ぺレイラ Alexander Pereiraを迎えたのが91年。以来、その陣頭指揮のもと、年々勢いをつけてパワーアップしている。
上演レパートリーは、年間32から35本。そのうち15演目が全く新しい演出になる。シーズン中、新作がほとんど毎月1本以上あるということになるが、これは、オペラの世界でも、通常、まず不可能な頻度だと言われている。
95年に首席指揮者に就任、05年からは、音楽総監督を務めていたフランツ・ウェルザー=メストFranz Welser-Möstは、2010年からウィーン国立歌劇場音楽総監督に就任する。このポジションは、今年6月にイタリア人のダニエル・ガティDaniele Gattiに引き継がれた。
8時開演。コートを預けて、ロビーでパンフレットを手に取る。私たちの席は、2階のバルコニー。好きな場所だ。
プロダクションは、ベルディの「海賊」 Il CorsaroIl。海賊の首領コッラードは、今かなり旬のヴィットリオ・グリゴーロ Vittorio Grigolo。愛人メドーラは、エレーナ・モスク Elena Mosuc。女奴隷グルナーラは、カルメン・ジアンタシオ Carmen Giannattasio。彼女を愛するセイドに、ホアン・ポンス Juan Ponsと、二人のソプラノの間に入るグリゴーロは、まさに適役。
昨年の秋に、チューリヒ中央駅構内をそっくりそのまま使い、通勤帰りの人々や観客も巻き込んで、「椿姫」 La Traviata が上演され、テレビで同時中継された。そこでアルフレードを歌っていたのが、このグリゴーロ。歌はもちろん素晴らしいのだが、インタビューに垣間見えるお茶目な性格が面白く、別のもので聴いてみたいとファンになってしまった。
また、この作品で、日本の若きテナー、北嶋信也さんがセリモ役でチューリッヒ歌劇場にデビューされたが、過日、お話を伺う機会があった。
「共演者にも恵まれましたが、プレミエも緊張せず迎えることができたのは、このチューリッヒ歌劇場の持つ独特の暖かい雰囲気のお陰だと思っています」
北嶋さんの言葉は、そのまま歌劇場の特性を表現しているように思う。
ペレイラ総裁は、しばしば、「ストーリーに忠実であれば、演出家は様々な冒険をしていいと考える」と発言している。
今回の「海賊」は、オペラ座のサポート・メンバーの方々に尋ねても、指揮も歌手も初めての配役であり、しかもあまり上演されないプログラムなので予想がつかない、という答えが多かった。
しかし、日を追うごとに評判が評判を呼び、上演はすべて満席。
特に、舞台一面に水を張り、巨大な鏡に反射をさせる演出の斬新さ、照明の巧さ、テンポの良さが、まったく飽きさせない。驚きや意外性を、次々と展開していく。
インターバルにシャンパングラスを持って、バルコニーに出てみた。ロビーの華やぎは素敵だが、舞台の熱気がそのまま流れ込んでいたので圧倒される。冷たい夜風が、気持ちいい。
6回のカーテンコールで、歌劇場は、さらに大きな興奮に包まれていった。こういう挑戦的でダイナミックな舞台に対して、惜しみない大きな拍手を送る観客の質の高さもまた、この歌劇場の世界における評価なのだろう。
“チューリッヒ歌劇場 「海賊」” への4件のフィードバック
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ある日曜日。森へ行くことになった。
チューリッヒは湖がすぐ近くにあるが、街の中心部でさえも、少し歩けば森に入ることができる。森の中を歩いたり、ジョギングしたり。それは、人々の生活の一部になっている。
この日出かけたのは、チューリッヒ湖の沿岸。友達の家の近くに広がる森。
「素晴らしいお天気になってくれたよ」と言って笑いながら、ブロンドのインテリ青年は雨空を見上げる。
長靴を履いた小さな男の子と手をつなぎ、訳のわからないドイツ語の歌を歌いながら枯葉を踏んで、ゆっくりと坂を登る。やがて小道に入ると、鼻先がす~っとする。森の匂いを呼吸する。もっと、深く吸ってみる。無数の木々が、天と地をつないでそそり立つ。
午前中の小雨の蒸気を含んだ空気が、あたり一面にしっとりと満ちている。せせらぎを渡ると、靴底の下に、つるっとした感触がある。大小の石がまばらに広がり、柔らかな苔に覆われている。彼らは、石から石へと軽々と渡り歩く。ときおり小枝が小さな音を立てて砕ける。
今日のお目当ては、森で火を熾すこと。ブラトヴルストBratwurstと呼ばれる、大きなソーセージを焼くこと。
森の中へ散らばり、それぞれが長い枝を探してくる。
山や森の生活とまるで縁のなかった私が、こういう見たことのない場面に唐突に参加すると、どうなるか。
この人たちは、子どものころからずっと自然と一緒に生きて来たんだ、と素直に新鮮な感動を覚えつつ、それと同時に、今ここで何の役にも立たない自分を悟り、黙ってブラトヴルストの番人となる。いや、実際、何をすればいいのか分からないので、ただ、うろうろしているだけなのだ。
ヴィクトリノクスVICTRINOXのアーミーナイフは日本でもお馴染だが、誰もが使い込んだ自分仕様のものを持っている。ポケットから取り出して、慣れた手つきで枝の先を尖らせ串を作っていく。
スイスの子どもたちがソーセージを1本持ってバーベキューへ行く話を聞いたことがあるが、どうやら、これは大人バージョンらしいとわかってくる。
チューリッヒで働く人々の週末が、何らかの形で森と過ごすこのバリエーションだと思っても、多分それほどはずれていない。
この辺りの人の森なのだろうか。
すでに石が組まれている。ここにあるのは、ブナやカラマツ、ポプラなど。太い幹をくべながら、先ほどの尖らせた枝の先に、「自分の」ブラトヴルストを横向きに突き刺す。
縦にした方が食べやすそうな気がするのだが、横がいいのだ、という何か理由があるということか。
皆切り込みの入れ方が違い、これもまた、ずっとうちはこうだった、というような習慣があるのかもしれない。
繰り返すが、自分の分は、自分で焼く。正確に言えば、いろいろ角度を変えたりしながら、焙る。倒木に座り、風と煙の方角を見ながら、燃えさかる火の上に枝を差し出す。
すぐそばに、テーブルになるような大きな石がある。いい色になったら、そこへ持って行く。
ここで、縦ではなく横に刺す理由が何となくわかったのだが、彼らは、これを一度枝から外す。こんがり焼けたブラトヴルストは、もちろん熱い。しかし、それを手でつかんで食べる!!
今の時代に、こんな食べ方が古代のしっぽのように残っているとは。何と、プリミティブで素敵なんだろう。このシチュエーションで手づかみすることは、私にはものすごくカッコよく見える。仲間になった親しみを込めて、彼らの流儀を真似てみる。
熾火の周りに、穏やかで心地の良い時間が流れる。
どこから現れたのか、上気した顔の少年たちがやってきた。
ここは街からそう遠くはないけれど、さらに深い森の奥には、牧童たちの秘密の道がまだあるのだろうか。
ヴィットリオ・グリゴーロの才能と声に惹かれて、追っかけ(ネットでですけど)ブログをやってます。よろしかったら、お時間のある時に覗いてください。
中央駅の椿姫、素晴らしい企画でしたね。私も徹夜でパソコンにかじりついて見ました。
IL CORSAROも超マイナーなオペラなのに、大成功のようですね。セイドは、ブルゾンではなくてホアン・ポンスです。
追っかけを超えた素晴らしいブログですね。拝読してから、書けばよかったです。お気に入りに登録しました。中央駅の「椿姫」のヴィットリオ・グリゴーロ、最高でしたね。この歌劇場が結構アグレッシブなことをするとは思っていたものの、あの演出を観て、やっぱりダダの街だったと感心しました。私が観たときのIl CorsaroのSeidは、ホアン・ポンスの間違え。プログラムによれば、12月末と1月の上演に、ブルゾンが出演するようです。ご指摘、ありがとうございます。ブログは、訂正いたしました。
私もRSSに登録させていただきます。こちらこそ今後ともよろしくお願いします。
29日と1日にブルゾンというのは知りませんでした。情報ありがとうございます。
私は20年来のルッジェーロ・ライモンディのファンなのですが、1月1日は、午後が《セビリアの理髪師》でライモンディのドン・バジリオ、夜は、グリゴーロの《IL CORSARO》という私には垂涎もののプログラムなんですね。なんともうらやましい…..
グリゴーロは、チューリヒには今後数年は、定期的に出演するようですので、ぜひ、ぜひ、ご覧いただいて、記事にしていただければ嬉しいです。
しかし、ブルゾンは元気ですね。
そうなんです。1月のプログラムは、超ゴージャスです。「セビリアの理髪師」のステージは、建築家のマリオ・ボッタがデザインするそうです。贅沢・・・