「ジャポニスムから禅まで  パウル・クレーと東アジア」展 パウル・クレー・センター

歌川国貞(三代歌川豊国)と 歌川広重 『当盛六花撰』のうち『菖蒲』の部分図、1854年

スイスの首都ベルンBern 。アーレ川に沿って12世紀に創られた都市国家の美しい姿は、ユネスコの世界遺産に登録されている。小高い丘に登って街を見渡すと、赤茶けた屋根が規則を持って並び、地形が大変起伏に富んでいることがわかる。

ベルン北西の近郊の村で、パウル・クレー Paul Kleeは生まれた。

ドイツ、ミュンヘンで美術を学び画家として活動し、バウハウスで教鞭を執ったことは良く知られるが、やがて、ナチス政権による前衛芸術家への弾圧から逃れて、彼は、故郷のベルンに戻ってくる。この地で、亡くなるまで創作活動をつづけた。

ベルン中央駅からバスに乗って、パウル・クレー・センターZentrum Paul Kleeへ向かう。終点で降りて少し歩くと、野原に忽然と出現したかのように、レンゾ・ピアノ Renzo Pianoが設計した建物が、巨大な3つの波型の屋根を、ゆったりと大地にうねらせる。

ここは、いわゆる美術館の域を大きく超え、「パウル・クレーの人生と作品についての情報研究センター」と定義される。クレーが制作した作品のうち4,000点以上もが収集され、毎回斬新な切り口で挑戦的な企画展を展開し、内外からの高い評価を確立してきた。

パウル・クレー『無題(二匹の魚、二匹の釣針、二匹の虫)』1901年

 

今年1月から、ユニークな展覧会が開催されている。

「ジャポニスムから禅まで パウル・クレーと東アジア」展。

19世紀後半、ヨーロッパに現れたジャポニスムは、フランスから20年以上遅れてドイツにも届き、それは、クレーが芸術家としてミュンヘンで活動を始めた時期と重なる。彼は、ここで日本的なるものの原点に出会うことになる。

この企画展では、いわゆる狭義なジャポニスムの文脈を大きく超え、クレーの作品のそれぞれを、日本・中国の美術と対比しながら提示している。
クレーが東アジアの美学からどのように刺激され、魅了され、それを作品に投影してきたのか。ヨーロッパから遥か遠い東アジアの美学とクレーの芸術が響き合う構成を仕掛けた。

関係というのが相互にして成り立つように。この展覧会では、クレーの東アジアからの影響に照射するにとどまらず、さらに、では、日本ではどうなのかと、「日本におけるクレーの受容」を大きなテーマとして取り上げている。
実際、ドイツ語圏以外では、日本ほどクレーの展覧会が開催され、クレーを研究し、受け入れている国は他にないのだそうだ。

武満徹の音楽、谷川俊太郎の詩、池澤夏樹の文学、高橋一哉の漫画、イケムラレイコの美術、伊藤豊雄の建築など。私たちの周辺に生まれている、実に多様な領域の文化を会場に招き入れ、クレーへの逆照射の地平を広げて見せる。

パウル・クレー『中国の美貌(的確)』1927年

東アジアの美学とクレー、というコンセプトの発見は、クレーの知られざるディメンションに光を当てた、ヨーロッパで初めての試みだ。

チューリッヒ大学美術史研究所の柿沼万里江さんは、パウル・クレーの研究者として日本でも著名でいらっしゃる。今回の企画の特徴についてコメントをいただいた。

「本展は、クレー研究の第一人者であられる奥田修さんの長年に亘るご研究の成果によります。奥田さんは、クレーがどのように東アジア美術に取り組んだか(仏画、水墨画、書、屏風、浮世絵、北斎漫画、和紙、仏像、工芸品など、展覧会会場でご覧いただけます)、そして、わたしは、視点を逆にして、日本人のクリエーターたちがどのようにクレーに取り組んだか(音楽、詩、文学、漫画、美術、建築と各メディアを横断します)、をそれぞれ担当し、相互補完的な内容となっています。このように東西の対話の接点に、また、メディアの橋渡しに、クレーという作家がいることを、どうかみなさんの目で見て楽しんでください」

 

2013年5月12日まで

Photo: © Zentrum Paul Klee, Bern

https://www.zpk.org/

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