地図にない村

遠くのアルプスに雪が積もり、稜線をくっきりと描いている。数週間前に撮ったこの写真の村は、もうすっかり紅葉していることだろう。

夏の間、アルプスの牧草地の山小屋でチーズを作っていた牧夫たちは、秋になると牛を連れて麓の村々へ戻ってくる。このとき、牛たちは色とりどりの花で飾られ、特別な衣装を纏い、ベルを鳴らして村を歩く。「牧下り」と呼ばれる。そこで開かれる、ケースタイレットChästeilet、「チーズ分配の祭り」で、牧夫たちは、高々と積み上げた大きな丸いチーズを、預かった牛のミルクの量に応じて酪農家に配り分ける。アルプス各地に伝わる古いお祭りだ。

1頭の牛のミルクで、10キロ以上ある巨大なチーズを、ひと夏で約6個作ることができる。どこの家のどの牛からこれだけミルクを絞ったと、結構厳密に計算される昔ながらの方法があるそうだ。いかにも、スイスらしい真面目さだ。

かつて、分厚い写真集で見た。真っ青な秋空の下、村の伝統の服を着て帽子をかぶり、誇らかにチーズをかかえる。深い皺を刻んだ顔に髭をたくわえ、山の化身のような神秘的な目をした、そんな牛飼いに会ってみたいと思った。

インターネットで村を調べ、担当らしき部署に電話をかけてみた。「チーズ分配の祭り」には、2週間ほど早かったらしい。しかし、分配はしないが、週末にチーズを振る舞う小さな農家があると聞き、お天気もいいのでアルプスまでドライブすることにした。

電車なら、ベルン州のツヴァイジンメンZweisimmenという駅。避暑やスキーリゾート地として知られる。ここから、この日の会場となる家までは、1時間に1本走る郵便バスに乗る。
ところが、予想以上に私の家から遠く、途中の渋滞もあり、このバスに乗り遅れてしまった。

「ガードレールのない崖の淵をぎりぎりに通る、そうい細い道がくねくねしていて危ないかもしれない」と、高い所が苦手な夫は、かなり躊躇する。後1時間待つか、走るか。結果的にはそのまま車で登っていくことになったのだが、住所を入力しても、ナビゲータに出てこない村落だった。やがて、行き止まった。

道を失い、ウォーキングでひと休みしている方たちに尋ねると、「少し戻って、水飲み場を曲がったところだと思いますよ」と教えてくださった。

標高1800メートル。包みこまれるように、ヨーデルの合唱が聞こえて来た。スイスドイツ語の古語なのだろうか。私には歌詞を聞きとることができないが、空のように真っ青なユニフォームを着た10人ほどの合唱団の皆さんの声は、アルプスにこだまして、透明なビブラートで響き渡る。
目の前に聳え立つ巨大な山々、点在する家々、緑の牧場、高原の草花。
大自然と共鳴するその音色があまりにも美しく、知らなかったどこかに触れられ、急に胸が熱くなってくる。

まだお昼前だったが、木のテーブルとベンチは、すでにほとんどいっぱい。山が正面に見える場所に座り、地ビールとチーズ、作り立てのハムを注文する。

人は集まっているが、前祝いのような静かな盛りあがり方だった。どうやらここは、村のチーズを作るお宅らしい。今年の夏の日付をつけて、チーズがずらっと並んでいる貯蔵庫の中を見せていただいた。

案内をしてくださったのは、今日の場を提供していらっしゃるサンチさん Santschi ご家族のご長男。1個15キロ、全部で800個ほどの丸いチーズを水槽の塩水のなかにざぶんとつけては、また元の位置に戻すのが朝の日課だそうだ。
シュヴィンゲンSchwingenという、アルプスの牧童の遊びから生まれた、お相撲とレスリングを合わせたみたいな有名なスポーツがある。相手をぶるんぶるん振り回して倒す格闘技で、スイスの国技だ。彼は、その選手。鋼鉄のようなずっしりぶ厚い胸板の筋肉マンだが、なるほど、ダンベルではなく、毎朝、チーズで鍛えているわけだ。

貯蔵庫から少し出しているアルプスの今年のチーズを分けていただき、帰りは、アルプスと山小屋を背景に草を食み、昼寝する牛たちを眺めながらゆっくり下った。

麓の小さな街は、どの家もお店も赤やピンクのゼラニウムにあふれ、それがこの地方独特の彫刻が施された木造保存建築の息づかいと穏やかに調和している。

スイスは、地方ごとに個性的なパンがあるので、まずは、パン屋さんへ。ここで町のチーズ屋さんの場所を伺った。
グリュイエール、エメンタール、レブロション、そして、山羊のチーズと果物のチーズを選んだ。

その日ドイツからやって来たゲストと夕食に、イチジクや葡萄と一緒に、ジュネーブ湖畔の白ワイン、ラ コート La Côteを合わせたが、チーズはいずれも最高だった。

PCに写真を落とし、どこから切り取っても絵葉書のような風景をクリックしていく。

チューリッヒはスイス最大の都市だが、それでも、東京と比べればゆっくり動いているように感じる。一番大きな違いは、森や湖が街の中にあること。大通りでさえも、至る所に湧き水があふれていて、そこに口を近づけて飲むことができる。キン、と冷たい、おいしい山の水だ。

週末はしっかり休むし、有給休暇も年に50日以上ある。それでも、この金融の中枢で働く人々のストレスは異常に高く、街を離れて、ひっそりとアルプスのどこかの小さな村へ移り、「牛飼い」になりたい、と考える男性が決して少なくないと聞く。

雪に閉ざされる時期のアルプスの過酷さは、私には、とてもとても想像することができない。牛だって、いつも機嫌がいいわけではないだろう。

大概が、見習い期間に挫折して、都市へリターンすることになるらしいが、先日テレビのインタビュー番組に登場していた40代の元エリート・バンカーは、牛と暮らし、チーズの作り方を習い、アルプスの生活に成功した人として紹介されていた。

コメントを残す