チューリッヒ中央駅からかつての工業地帯の方向へ電車をひと駅乗ると、ハードブリュッケHardbrückeに着く。空気感が変わる。
トラックの幌を再生してカバンや財布を作っているフライターグFreitagは、銀座に旗艦店をオープンしたが、本店の最寄り駅はここ。段ボールを積み上げたようなそのビルに向かって歩いていくと途中に「ヘルシンキクラブ HELSINKIKLUB」がある。チューリッヒで一番おいしいくて尖ったピザレストランRossoの隣り。
もとよりクリエイティブな仕事をする人々が多い地域。駅の反対側には、高層のプライムタワーが建ったが、こちら側は工場や倉庫を改造したものがあり、渋く錆びた感じがなかなかいい。
ヘルシンキクラブには、地元のパーティピープルやトレンドセッターたちが集まる。 夜10時を過ぎると人通りがなくなるチューリッヒの中心街とはまったく異なるキャラクターを持ち、年齢、国籍、職業、ジェンダーを超えた混沌と開放感がある面白い場所だ。
初めて友達に連れて行ってもらったのは、もうずいぶん前になる。 それが、「ふちがみとふなと(vo. 小道具 渕上純子、ba.コーラス 船戸博史)」のコンサートだった。
1年目。まったく違う世界のコードのなかで私は混乱した。2年目。率先して、ノッテいた。3年目。「ふちがみとふなと」ワールドにすっかりはまりこんでいた。
記憶のどこかで聴いたことがありそうでなかったかもしれない音楽。渕上さんのハスキーな声、ノスタルジックな歌詞のひとことひとこと。おもちゃのラッパや自転車のベル、古道具屋さんにありそうなタンバリン。
しみじみほんのりしたり、じ~んとしたり。コンサートが盛りあがってくると、一緒に歌詞を口ずさみながらほとんど踊りだしそう状態だ。
何度お会いしても、不思議で素敵な人たちだ。
その不思議の断片は、こちらから。
http://www.youtube.com/watch?v=_CqkqMxJAp0
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「ふちがみとふなと」は、毎年チューリッヒでコンサートを開き、「社員旅行」というヨーロッパ凱旋ツアーも年ごとに拡大している。今年は、アムステルダムから始まり、今週木曜、金曜は、チューリッヒ。 コンサートは21時から。バーは20時から開いている。
6月20日(木)21日(金)チューリッヒ HELSINKIKLUB https://www.helsinkiklub.ch/
6月22日(土) パリ le Limonarie http://limonaire.free.fr/
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東京に戻った時、偶然チューリッヒ歌劇場管弦楽団のソロチェリスト、金丸晃子さんから演奏会のご案内をいただいた。
日本チェロ界の先駆者である井上頼豊生誕100周年を記念する、門下生によるコンサートだった。
金丸さんのベートーヴェン、チェロ・ソナタ。バロックの第一人者、鈴木秀美氏のバッハ無伴奏組曲。小川剛一郎、銅銀久弥、山本裕康各氏のチェロと村上弦一郎氏のピアノによるポッパーのレクイエム。
こうした世界的なチェリストの演奏を3時間聴き続けるという、類まれな機会に恵まれた。
コンサートの最後に、この夜集った16人のチェリスト全員で演奏されたのが、パブロ・カザルスPablo Casalsの「鳥の歌」だった。
母国スペイン、カタロニアの民謡。カザルスは、この曲を1945年以降演奏し始める。故郷に思いを馳せ平和を願い、鳥が「ピース、ピースと鳴く」という曲は、キリストの生誕を祝う、クリスマス・キャロルでもある。
今年は、クリスマス・リースを作りながら、「鳥の歌 ー ホワイトハウス・コンサート」を部屋に流していた。ケネディ大統領に招かれ舞踏室で開かれた、伝説の演奏会。
クープランの前奏曲に移るあたりから、カザルスの絞り出すような唸り声が聞える。それが、このように記憶を引き出すとは意外だったが、いつの間にか、私はザリのことを考えていた。
2年間、ドイツ語学校で机を並べたクラスメート。アフガニスタンから亡命してきた、20代半ばという年齢よりは遥かにしっかりした女性で、私はいつも助けてもらっていた。
ある日、自分の育った家について語る授業で。彼女は、先生に許可を得ると、故郷の家を皆に見せたいと、教室の後ろに並んだコンピュータに向かった。
検索をかけ画面に現れたのは、イスラム建築の白く輝く壮麗なビラだった。没収された後、今はホテルになっているという。
「ご両親はお元気なの?」
「父も母も、私の目の前で殺されました」
帰り道。私の目をしっかり見つめて、彼女は答えた。
二人でトラムに乗った。
平和なイヴを。
メリー・クリスマス
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ユーチューブから
「鳥の歌 ー ホワイトハウス・コンサート」 Pau Casals – El cant dels ocells (at the White House)
http://www.youtube.com/watch?v=qKoX01170l0
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初めて、チューリッヒ歌劇場でオペラを観たのは、5年ほど前になる。それは、オペラ座サポート・メンバーの方からいただいた切符だった。メンバーや、年間を通じて同じ席を押さえている歌劇場ファンの方たちは、例えば、旅行などで都合がつかなくなった場合、その席を誰か知り合いに譲ることが多い。
「ネルロ・サンティNello Santi をご存知? もし、このオペラがつまらなくても、サンティの指揮をご覧になるだけでも、十分に価値があると思います」。
オーケストラ・ピットのすぐ後ろ。一列目の中央。
今まで見たことのない、どこか超人的な風貌、威厳。大きな身体が、舞台の袖から、ゆっくりゆっくりと歩み指揮台に立って振り向くと、「マエストロ!!」の声が客席のあちらこちら響き渡り、拍手が湧き上がる。
私の目の前に、サンティの顔があった。
1931年、イタリア生まれ。78歳。彼に、老熟、のような形容は、まったくあてはまらない。力強く繊細でリリカルな音楽を作る、現代屈指の世界的な指揮者だ。
チューリッヒ歌劇場では、1958年に初めて指揮者を務めているが、時代とともに音楽監督が変遷して行っても、サンティは、この歌劇場を代表する誇り高き存在。日本では、N響と定期的に公演を持っている。
サンティが創り出す音楽とにじみ出る至上のオーラの魔法にかかり、私はこの夜、あまりにも大きな衝撃を受けた。
そのマエストロ、サンティが、チューリッヒ歌劇場の今年のオペラのなかでも、ひときわ注目度を上げた作品のひとつ、ジョアキーノ・ロッシーニ Gioachino Rossiniの「セビリアの理髪師 Il barbiere di Siviglia」を振った。
今回の「セビリアの理髪師」は、ペレイラ総裁の大胆なアイデアで、スイスのイタリア語圏テッシーン出身のスター建築家、マリオ・ボッタ Mario Bottaが舞台美術を担当。演出は、辣腕 チェザーレ・リェーヴィ Cesare Lievi。ユニークなコラボだが、歌手も大物ベテラン、若手実力派と、まさに役者が揃ったプロダクションだ。
時は19世紀初め。スペイン南部のセビリア。
街の何でも屋の理髪師フィガロが、医者である後見人に見張られている若い美女と伯爵の恋を、実らせる。後見人の謀略やサディスティックなまでの執拗な妨害を、フィガロのあの手この手、機知に富んだ名案で切り抜け、二人はめでたく結婚する、というオッペン・ブッファ。風刺のきいた喜劇として知られる。
フィガロのマッシモ・カバレッティ Massimo Cavallettiのとことん明るいスター性。
籠の鳥ロジーナの財産を狙って結婚をたくらむ医者バルトロに、カルロス・ショソンCarlos Chausson。彼に取り入る音楽教師バジリオに、ものの見事に凄みの効いた偽善者の悪役を演じたルッジェーロ・レイモンディ Ruggero Raimondi。この二人の大ベテランの歌と演技が、ロッシーニの上質な喜劇に、燻銀のような光彩を放ち風格をもたらす。
演出家リェーヴィが語る。「私は、この物語がいかに不条理であるか表現しようと試みました。人生は、不条理です。テーマは、愛。それも、かなり特殊な愛です」。
身分を偽りロジーナの愛を確かめようとする伯爵アルマヴィーヴァに、マリオ・ツェフィーリ Mario Zeffiri。兵隊になったり、音楽教師に化けたり、変幻自在に変装しては、愛するロジーナの前に現れる。
令嬢ロジーナは、この舞台でチューリッヒ歌劇場にデビューしたメゾ・ソプラノのセレーナ・マルフィ Serena Malfi。キュートで頭の回転の早い現代っ子。後見人の意地悪を巧みにかわし、二人の縁を取り持とうとするフィガロの知恵さえ先回りしてしまう。ちょっと気まぐれだが、誠実。貧乏学生に扮した伯爵アルマヴィーヴァを愛する。
リェーヴィは続ける。「アルマヴィーヴァは、恋に落ちています。彼は虚構を楽しみ、多情な冒険を愛し、女性を所有することを愛しているのです。しかし、彼が、本当に彼女を愛しているのか。それは、私にはわかりません」。
衣装デザイナーと相談し、コスチュームを大きく2つのパーツに分けたと言う。とても年老いた人々。そして、若い人々。
この喜劇は、世代や価値観の対立、貴族と庶民という身分の対立が基盤にあるが、衣装によってもこのコンフリクションを表現しようとした。
理髪師フィガロは、これほどの頭脳明晰をもってすれば、あの時代いかようにも出世する機会があったはずだが、どうも、その手の話には無頓着であることを気質としている。軽妙な演技と歌を楽しませながら誰よりも走り回って活躍するものの、登場人物全員のなかで最も冷静な視線を持っている。庶民的な親しみと巧妙さに好感が持てるのは、カバレッティのキャラクターによるところも大きい。
また、いつもくしゃみをしている女中ベルタ役のレベッカ・オルヴェラ Rebeca Olveraは、美しいソプラノでアリアを聴かせる。老けた女中で「老いた人々」の側に属しながら、飄々としたうまいおとぼけが、ストーリー全体のなかで洒落たスパイスになっている。
さて、マリオ・ボッタのステージ・デザインは、観客にもメディアにも、賛否両論。私は、いかにもこの歌劇場らしい斬新な挑戦で面白いと思ったが、新聞の批評はかなり辛口だった。
ボッタは、チューリッヒの街そのものが興味深いターゲットだと語る。
「チューリッヒは、現代アートの影響を強く受けている大変モダンな街です。バウハウスの時代以降、グラフィック・アートと近代アートが、この街に様々な美意識をもたらしましたが、私たちは、20世紀セカンド・パートの芸術の世界に『セビリアの理髪師』を運んできます」。
この歌劇場のバレエのステージを2度デザインしているが、オペラは初めてだ。
2つに重なったメタル・グレイの4つのキュービックが、ストーリーとともに舞台を稼働し、光を変えたり、画面にムービーや鏡が現れたりする。
また、何でも屋の理髪師フィガロが持っているトランクは、どこでも開店してしまう彼のお店であり、ハサミやカツラや手足、おまけに何故か、首がぐんぐん伸びるキリンまで登場する。15と数字が大きく書かれているが、彼がお店を開けたところは15番地、ということらしい。
何だか、「ふうてんの寅さん」を思い出した。
ボッタの話に戻ろう。
「建築と舞台の間には、大きな違いがあります。建築は、常にユニークな空間や場を創造します。舞台は、これとはまったく違い、部屋をデザインすることがタスクではありません。しかし、人々に夢を見てもらわなければなりません。観客の想像力を演じることが、大きな役割なのです」。
カーテン・コールが続き、ネルロ・サンティも舞台に上がって来る。
オーケストラのすべての楽器を演奏できると聞いたが、今回は、囁くようなチェンバロを奏でた。
サンティが表現した「ロッシーニ・クレッシェンド」は、ロッシーニがこの喜劇を上質に仕立てたように、笑いも諧謔も風刺も音で表現する、詩的で格調高い作品となった。
マエストロは、誰よりも深く長く頭を下げ、やがて穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと客席を見渡している。
Stage Photo: Opernhaus Zürich/ Suzanne Schwiertz
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日本語をまったく知らないスイスの中学生たちが、震災復興支援のためのメッセージソングを日本語で歌っている。
私がその話を聞いたとき、「未来の友達 /Mirai no tomodachi 」がユーチューブにアップされて1週間ほどたっていた。
この時点で、すでに1万人以上がアクセスし、瞬く間に日本へ、世界へ広がり、スイスには多くの反響が届いているという。
制作者のミュージシャン、パスカル・ケーザーPascal Kaeserさんはベルンの中学の音楽の先生でもある。歌っているのは、ケーザーさんの生徒たち。
日本語の歌詞を理解し覚えるのに、どれほど練習したことか、この歌を聞けばわかる。彼女たちの一所懸命が、率直な視線から痛いほど伝わってくる。
傷ついた人々の心に寄り添うように、その人たちの国の言語で歌う。
それは、尊敬の表現なのだと思う。
パソコンに向かって泣きながら、何度も「ありがとう」と言っていた、2011年12月。
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“「未来の友達 / Mirai no tomodachi」” への2件のフィードバック
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夕方から、雪が降って来た。
椋鳥は、きっと風向きが変わる前に帰っただろう。
私の机の前に見えるブナの木は、縦横に伸びる細く黒い枝に雪をのせて立っている。
夜が来る。
今日は、アドベントのキャンドル、4本すべてが灯る日だ。
ラヤトンRajaton 。面白い響き。北欧、フィンランド。六人組のアカペラ・ボーカル・グループの名前。
私の友人の何人かも、そこから来た人たち。薄い茶色や白っぽい金髪。青い瞳。大人になっても透きとおる肌を持っている。物腰のやわらかさが印象的だ。
冬になってラヤトンの声を聞いたとき、彼女たちを思い出した。
知らない言語は、きれいな声で語られると音楽のように聞こえ、その国の自然が見えてくる。それが魂を揺さぶるような歌になれば、地球に広がる。
意味が、言葉を超えるから。誰でも心でわかるから。
世界で静かに伝えられている、ラヤトンの歌声。
おそらく自然への謙虚さから生まれる、親しさ。森羅万象、聖なるものが近づいてくる、安らぎ。
そっと目を閉じ、しばらくそこに棲んでみる。
NHK世界里山紀行「フィンランド・森とともに生きる」、2011年春に公開されたドキュメンタリー映画「森聞き」。ラヤトンは、それらのテーマ曲を奏でている。
「森聞き」は、森と共に人生を送ってきた老人たちを訪ねる高校生が、森の話を聞きとりながら、人について、自然について、社会について考える過程を追っていく。
日本各地の森のなかで、ラヤトンの歌声は、谷底へ降りてゆき、山にこだまし、川の水と戯れる。人々が肩を寄せて笑うその姿も、森の一部であると教えてくれる。
「ラヤトン 無限の森へ フィンランド・アカペラの響き」
これは、彼らの12枚のCDから15曲を選んで製作された、CD+絵本。
風の声、山の声、光の微笑みや雪のきらめき。軽やかな蝶の羽音。それら多くはフィンランド語の歌だ。
フィンランド文学者、上山美保子さんのすぐれた超訳。三田圭介さんが描く、豊かでやさしい森の世界。柴田昌平監督による編集。丁寧に編まれた手作りのあたたかさが、ピュアな歌声にふさわしい。美しい絵本だ。
ページからページへ。
私が見つけた森の精霊は、かくれんぼしながら飛びまわっている。
クリスマスプレゼントにしても素敵だけれど、ヴァレンタインに手渡すというのも、なかなかスマートだと思う。
「ドビンの花咲く谷間 Dobbin’s Flowery Vale」というアイルランドの古謡は、「森聞き」で最初の音を聴いた瞬間、いったい何が起こったのかと思った。ピーンと、澄みきった天までとどく歌声は、野性の気高い精神を解き放つ。
この歌を、ユーチューブで見つけた。
http://www.youtube.com/watch?v=Ucpx11Xfpbk&feature=player_embedded
「ラヤトン 無限の森へ フィンランド・アカペラの響き」
2,850円+税
プロダクション・エイシアから、直接お求めになれます。
https://www.asia-documentary.com/rajaton/index.html
何故か、ふとタイトルに惹かれるように拝見した去年の記事、リンクされているYouTubeの「未来の友達 /Mirai no tomodachi 」を初めて見て、涙が溢れてきました。 心を揺すぶられる素晴らしいメッセージ動画を教えて下さってありがとうございました。
海外に暮らす日本人の誰もが、こんな遠く離れた国からいったい何ができるのか、どのように役に立つことができるのか、悩んでいましたね。
友人たちとベルンの日本大使館へ記帳にいったことを思い出しました。
スイスやドイツでの報道が、日本とあまりにも大きく違ったこと。インターネットで飛んでくるヨーロッパからの情報。
原発への質問も個人個人に投げかけられました。日本語で歌ってくれたこの歌の歌詞にほろほろきて。ありがとう、ありがとう、とPCに頭を下げていました。