間もなく、チューリッヒとジュネーブで、毎年恒例のファッションショー「モード・スイス Mode Suisse」が開催される。スイスでヨーロッパで多くのファンを持つブランド「KAZU」のカズ・フグラーKazu Hugglerさんから、「モード・スイス」での新作発表の後、すぐに東京の成山画廊で展覧会を開くと伺った。
成山画廊とカズさんと言えば、幻想の森から脱け出してきたような脚のついた銀のハンドバッグを連想するが、今回は、日本画家の松井冬子さんとコラボレーションした作品と昨年根津美術館で発表した作品を含めた近作を紹介する。
日本のDNAと西洋がフュージョンされた「KAZU」のファッション。それと前述の幻想美術館の闇のなかで息をひそめている、シュールで超自然的な立体作品との間は、いったいどのようにつながっているのだろうかと、前々から興味があり、いつかお聞きしてみたいと思っていた。
「私はファッションデザイナーとして、自然の美しさと恐ろしさとその対照を追求し、畏怖の念を表現する事や、自然をリスペクトし、人間がいかに自然の持つ力と、そのはかなさと共存出来るか、考えています」
「恐怖」「狂気」「ナルシシスム」などをテーマに、「痛み」を伴う松井冬子の作品からプリントを起こした、ドレスやスカーフ。
「日本の美学と美術史を根元にコレクションを造っている私にとって、日本絵画を美術の中で最強と思う松井さんと共感するものがあります。例えば、松井さんの作品にある、鑑賞者にダイレクトにコンフロント(対審)する、女性のあり方、人体への興味、生と死、というテーマです」
40代になってから、女性としていかに年を取っていくか、服を作りながら強く考えるようになった、とカズさんは語る。
「生命を宿らせる事が出来る女性の体は、男性と違って、時の流れと体の老化をもっと身近に感じると思います。この変化をリスペクトし、服を通していかに讃えるかを考えています」
2013年春夏。世界のファッションで、「ジャパン」がパワフルに展開されている。その流行が花開くエポックに、敢えて美学という本質を提示するコラボレーションは、二人のアーティストが自然界から紡ぎ出した共生の証しであるのかもしれない。
期日:3月13日(水)
http://www.gallery-naruyama.com/
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毎年、桜の時期に合わせて一時帰国していたが、あの3.11の後は、どうにもならなかった。スイスから日本へ、飛行機が飛ばない。1本しかない直行便もドイツ経由便も成田には行かず、チケットは宙に浮いた。
スイスのニュースだけを見ていると、日本列島がそっくり崩壊してしまい、もうどこにも帰るところがなくなったような脅迫感に襲われた。日本人の友人の誰もが家に閉じこもり、パソコンの前にくぎ付けになっていた。
3月27日。隣国ドイツで緑の党が圧勝し、原発への批判が日増しに高まり、日常的に、かなりアグレッシブな質問をつきつけられることがしばしばあった。
夕闇のなか、中央駅から伸びる大通りバンホフシュトラッセBahnhofstrasseを歩いていたら、ぺスタロッチの像が立つ芝生の広場一面に、キャンドルを灯す人々がいた。グリーンピースGreenpeaceの女性が私に近づき、抱き寄せようとするかのように、ビラを持った手が私の肩に乗った。
不意をつかれて、一瞬身体を引いた。泣きたいのか笑いたいのか、分からない顔になっていたと思う。
こんな時期に日本へ行くの?
どうしても帰るの?
スイスに戻ってこれるの?
周囲のスイス人たちのいぶかる声を背に、私は5月に成田に降りた。
空港は、ゴーストタウンのように空っぽ。誰も乗っていないリムジンを送り出す度に、係りの方たちは、バスが見えなくなるまで深く深く頭を下げていた。私のバスも例外でなく、乗っていたのは私ひとり。都心までの貸し切りだった。
「悲観的な報道があまりにも長期間にわたり、あまりにも集中して続き過ぎた。これでは日本の助けにならない。報道どおりではないことを示したかった」(swiss info 2012年10月17日)と、チューリッヒの隣り街、ヴィンタートュールWinterthurの旅行代理店で日本を担当していたトーマス・コーラーThomas Köhlerさん。日本へのツアーは、次々とキャンセルされた。
客足は遠のくばかりで、ついには職を失ったコーラーさんは、毎日流れてくる悲惨な映像とヨーロッパで過熱する報道や風評に心を痛める。やがて、彼は、大好きな日本へ「恩返しをする」ために、日本を徒歩で旅する決意をした。
日本には、まだ安全な場所があるのだと、世界中の人々にアピールするために。寝袋とテントを背負って、日本列島を北から南まで、自分の足で歩いて縦断する旅。2011年8月1日に北海道宗谷岬を出発し、12月31日に鹿児島県佐多岬に辿り着く、5カ月に及ぶ2,700キロの旅になった。
コーラーさんは、この間、各地の風景や出会った人々とのエピソードを、英語、ドイツ語、日本語でブログに紹介しつづけた。旅の途中から交流が始まったスイスのウェブ編集者ヤン・クルーセルJan Knüselさん。映像制作者の兄、シュテファンStephanさん。二人は、カメラを抱えて日本へ飛び、コーラーさんを追いかけることにする。
「Negative:Nothing 全てはその一歩から」は、こうしてドキュメンタリー映画として自主制作された。ブログの最後に毎回良かったこと、悪かったことを書いたが、悪かったことはほとんどなかったと言う。タイトルは、ここから得た。
コーラーさんの旅は、決して「被災地ツーリズム」ではない。映画には、純粋にコーラーさんの見た日本が描かれている。
たった一人で、歩き始める。
誰でも小さな行動を起こすことによって、何かを変えることができる、とコーラーさんは言う。実際、映画が生まれ、何かが確実に動いている。
誰にでもできることかもしれない。しかし、誰もがその勇気を持っているだろうか。孤独に耐え、信念を貫くことができるだろうか。
自分の五感すべてで体験した日本を、5か月間、世界に向かって発信しつづけた、しなやかなで強靭な意志。その視線のやさしさに、真っすぐで誠実な愛が見えた時、私たちの心に熱い想いが込みあげてくる。
ヴィンタートュール、ベルン、チューリッヒに続き、昨年、大阪、東京で上映され、静かな感動が広がっている。
来週、3月9日(土)より4回、東京赤坂のドイツ文化センターで再上映される。
photo:© negativenothing.com
チケットの予約は、こちらから。
https://negativenothing.com/ja/
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スイスの首都ベルンBern 。アーレ川に沿って12世紀に創られた都市国家の美しい姿は、ユネスコの世界遺産に登録されている。小高い丘に登って街を見渡すと、赤茶けた屋根が規則を持って並び、地形が大変起伏に富んでいることがわかる。
ベルン北西の近郊の村で、パウル・クレー Paul Kleeは生まれた。
ドイツ、ミュンヘンで美術を学び画家として活動し、バウハウスで教鞭を執ったことは良く知られるが、やがて、ナチス政権による前衛芸術家への弾圧から逃れて、彼は、故郷のベルンに戻ってくる。この地で、亡くなるまで創作活動をつづけた。
ベルン中央駅からバスに乗って、パウル・クレー・センターZentrum Paul Kleeへ向かう。終点で降りて少し歩くと、野原に忽然と出現したかのように、レンゾ・ピアノ Renzo Pianoが設計した建物が、巨大な3つの波型の屋根を、ゆったりと大地にうねらせる。
ここは、いわゆる美術館の域を大きく超え、「パウル・クレーの人生と作品についての情報研究センター」と定義される。クレーが制作した作品のうち4,000点以上もが収集され、毎回斬新な切り口で挑戦的な企画展を展開し、内外からの高い評価を確立してきた。
今年1月から、ユニークな展覧会が開催されている。
「ジャポニスムから禅まで パウル・クレーと東アジア」展。
19世紀後半、ヨーロッパに現れたジャポニスムは、フランスから20年以上遅れてドイツにも届き、それは、クレーが芸術家としてミュンヘンで活動を始めた時期と重なる。彼は、ここで日本的なるものの原点に出会うことになる。
この企画展では、いわゆる狭義なジャポニスムの文脈を大きく超え、クレーの作品のそれぞれを、日本・中国の美術と対比しながら提示している。
クレーが東アジアの美学からどのように刺激され、魅了され、それを作品に投影してきたのか。ヨーロッパから遥か遠い東アジアの美学とクレーの芸術が響き合う構成を仕掛けた。
関係というのが相互にして成り立つように。この展覧会では、クレーの東アジアからの影響に照射するにとどまらず、さらに、では、日本ではどうなのかと、「日本におけるクレーの受容」を大きなテーマとして取り上げている。
実際、ドイツ語圏以外では、日本ほどクレーの展覧会が開催され、クレーを研究し、受け入れている国は他にないのだそうだ。
武満徹の音楽、谷川俊太郎の詩、池澤夏樹の文学、高橋一哉の漫画、イケムラレイコの美術、伊藤豊雄の建築など。私たちの周辺に生まれている、実に多様な領域の文化を会場に招き入れ、クレーへの逆照射の地平を広げて見せる。
東アジアの美学とクレー、というコンセプトの発見は、クレーの知られざるディメンションに光を当てた、ヨーロッパで初めての試みだ。
チューリッヒ大学美術史研究所の柿沼万里江さんは、パウル・クレーの研究者として日本でも著名でいらっしゃる。今回の企画の特徴についてコメントをいただいた。
「本展は、クレー研究の第一人者であられる奥田修さんの長年に亘るご研究の成果によります。奥田さんは、クレーがどのように東アジア美術に取り組んだか(仏画、水墨画、書、屏風、浮世絵、北斎漫画、和紙、仏像、工芸品など、展覧会会場でご覧いただけます)、そして、わたしは、視点を逆にして、日本人のクリエーターたちがどのようにクレーに取り組んだか(音楽、詩、文学、漫画、美術、建築と各メディアを横断します)、をそれぞれ担当し、相互補完的な内容となっています。このように東西の対話の接点に、また、メディアの橋渡しに、クレーという作家がいることを、どうかみなさんの目で見て楽しんでください」
2013年5月12日まで
Photo: © Zentrum Paul Klee, Bern
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© Swissmilk
丘の上の牧場でロバの子や牛の子が生まれると、ご主人たちは、それはそれはうれしそうに私たちを子どもの近くに呼んでくれる。この女の子も、かわいがられて草を食んで、そのうちおいしいミルクを作るのだろう。
静かな1月。
雪のアルプス連峰と湖を、動物たちも人間も、眺めている。
幸せな一年でありますように。
今年もよろしくお願いいたします。
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東京に戻った時、偶然チューリッヒ歌劇場管弦楽団のソロチェリスト、金丸晃子さんから演奏会のご案内をいただいた。
日本チェロ界の先駆者である井上頼豊生誕100周年を記念する、門下生によるコンサートだった。
金丸さんのベートーヴェン、チェロ・ソナタ。バロックの第一人者、鈴木秀美氏のバッハ無伴奏組曲。小川剛一郎、銅銀久弥、山本裕康各氏のチェロと村上弦一郎氏のピアノによるポッパーのレクイエム。
こうした世界的なチェリストの演奏を3時間聴き続けるという、類まれな機会に恵まれた。
コンサートの最後に、この夜集った16人のチェリスト全員で演奏されたのが、パブロ・カザルスPablo Casalsの「鳥の歌」だった。
母国スペイン、カタロニアの民謡。カザルスは、この曲を1945年以降演奏し始める。故郷に思いを馳せ平和を願い、鳥が「ピース、ピースと鳴く」という曲は、キリストの生誕を祝う、クリスマス・キャロルでもある。
今年は、クリスマス・リースを作りながら、「鳥の歌 ー ホワイトハウス・コンサート」を部屋に流していた。ケネディ大統領に招かれ舞踏室で開かれた、伝説の演奏会。
クープランの前奏曲に移るあたりから、カザルスの絞り出すような唸り声が聞える。それが、このように記憶を引き出すとは意外だったが、いつの間にか、私はザリのことを考えていた。
2年間、ドイツ語学校で机を並べたクラスメート。アフガニスタンから亡命してきた、20代半ばという年齢よりは遥かにしっかりした女性で、私はいつも助けてもらっていた。
ある日、自分の育った家について語る授業で。彼女は、先生に許可を得ると、故郷の家を皆に見せたいと、教室の後ろに並んだコンピュータに向かった。
検索をかけ画面に現れたのは、イスラム建築の白く輝く壮麗なビラだった。没収された後、今はホテルになっているという。
「ご両親はお元気なの?」
「父も母も、私の目の前で殺されました」
帰り道。私の目をしっかり見つめて、彼女は答えた。
二人でトラムに乗った。
平和なイヴを。
メリー・クリスマス
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ユーチューブから
「鳥の歌 ー ホワイトハウス・コンサート」 Pau Casals – El cant dels ocells (at the White House)
http://www.youtube.com/watch?v=qKoX01170l0
私のパートナー氏も震災後1ヶ月で所用で日本へ飛びました。同僚たちは・・・勇気がある・・・と言いました。でも私は、日本人たちはみんなそこに住んでいるのですよ・・と。
確かに・・・と彼らは言いましたが、予定していた旅行をキャンセルしたあと、再び旅行計画を立てている人はまだいません。
「プレシャス」でインタビューさせていただいた、チューリッヒ大学日本文学の研究者、ダニエラ・タン先生も、震災後すぐに日本へ飛ばれました。「こういうときこそ、普通にできることを普通にしなければいけないのです。みんながキャンセルをして、私が行かなければ学会が開かれなかったので、迷わず行きました」とおっしゃっていました。親日家のスイス人は、毅然としていらっしゃいましたね。