ホワイトアスパラガスのレストラン

日本であれば、山菜の楽しみがある。ウドもたけのこも、タイミング良く季節に帰国していると、飽きるまでいただく。

北ヨーロッパの初夏、5月、6月の旬の王様と言えば、ホワイトアスパラガス。味を積み重ねていく足し算の料理では、日本人がほろ苦さを尊ぶように風味を味わうのとは扱い方が幾分違うが、これがちょうどウドやたけのこのような立場にあたる。走りは、やはり話題になる。

チューリッヒのお店に出回る順では、まずは、チリやアルゼンチンといった南米もの。ポルトガル、スペインあたりの南から。その次に、堂々と並ぶのが、中には直径2センチもあろうか、実に逞しいドイツ産のアスパラガスだ。ライン川沿いの谷間。フライブルグFreiburgからハイデルベルグHeidelberg。ベルリンに近い、ブランデンブルグBrandenburg は、有名な産地だ。
市場でもスーパーでも、大きな木箱に、山のように積み上げられる。

数歩遅れて、それよりもかなり細身のスイスの地場ものが登場する。温度湿度の管理がされているので、ほぼ同じ時期に出てくるそうだが、寒くて天候不順の今年は、昨年より少し遅いような気がした。

ホワイトアスパラガスのために生まれた、縦長の寸胴鍋がある。毎年、迷う。やっぱり、あるべきなのだろうかと。他に何のために使えるだろうかと。
そして、今年もついに買いそうもなく、横に寝かして茹でてしまった。

ところで、私が出会った限り。スイスのどこのレストランでも、かなり柔らかく茹でる。他の野菜も押し並べて十分以上に茹でることからして、さっと湯がくという感覚は、かなり日本的なのだろう。
ウドの仲間なので、生で食べることができないものか、と考えていた。せめて、もっとしゃきっ、とさせるわけにはいかないのかと。

この疑問の雲を気持ちよく追い払ってくれたのは、数年前に朝日新聞に掲載されたレシピ。市ヶ谷のフレンチ、ル・マンジュ・トゥーの谷昇シェフの茹で方だ。ホワイトアスパラガスの皮は、結構厚く剥くが、捨ててはいけない。ここに滋味がたくさんある。この皮でカーバーして短時間で茹で上げ、余熱で仕上げる。ほろ苦さがおいしく残り、歯ごたえもある。
探していたのは、これだった。谷さんのようにクラシックの土台がしっかりしていて、しかも素材を大切にする料理家から、こういう逆発想の提案をされるのは面白い。

河川が運ぶ肥沃な土壌は、アスパラガスの成長にも適している。
車で1時間ほど。ライン川を越え、ドイツ国境に近いシャハウゼンShaffhausenの近くへ。フラッFlaach という村にアスパラガスの レストランが数件あり、いずれも、何世代かに渡る常連がついていると聞く。

ホワイトアスパラガスのために。私たちが1年に1回訪ねるのは、「水車小屋の上」オーバーミューレObermühle とう名のレストラン。18世紀初めの宿屋さんが改造された、どっしりとした石と木の建築。大きな古時計や牛のベル、鋤など。骨董がたくさん壁に掛けられている。
入口には、粉挽きに使われていた巨大な石が立てかけられ、ひんやりとしたエントランスからミシミシ音のする階段を上がると、ダイニングルームが左右に分かれる。

ファームスタイルの素朴な料理を出しているが、目的がひとつなので、メニューは見ない。というか、他の席の人々も、全員一様にホワイトアスパラガスを食べている。

スターターが終わると、自家製のバターを溶かした小さいお鍋が、火の上に乗って運ばれる。その隣に置かれたのが、細かく切ったグルイエールチーズ。黄身の色が鮮やかな、たっぷりとしたマヨネーズ。定番のソース、ホランデーズはカロリーが気になるものだが、このお店にはない。生ハムを添えることが多いが、ここでは、ロースハムという選択がある。

基本的には、ホワイトアスパラガスを、延々とひたすら食べる。ハムは、おまけみたいなもので、お皿がきれいになると、同じように茹でられた次のもう一皿が、やって来る。

どのくらい、食べるか? 多分、ひと束。皮ごと測れば、二人分で1キロはありそうなボリュームだ。

ホワイトアスパラガスの穂先をフォークで突き刺すのは、罪。そう言われる。大地に近い部分から切り分けてゆき、穂先は、最後にうやうやしく、そっと口に運ぶ。

それは、自然の力への挨拶。礼儀のようなものだろう。

この季節一番のご馳走。シンプルな夕食を、ゆっくりと味わう。

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