チューリッヒ歌劇場といえば、もちろんオペラで有名であるが、実は、ここに所属するチューリッヒ・バレエ団の舞台は、「ヨーロッパで最も美しいバレエ」と呼ばれている。
オペラの素晴らしい歌手がこの小さな街に集約されるように、バレエもまた、しかり。世界中からエリート中のエリート・ダンサーが集まって来て、プログラムごとに綺羅星のようなスターが登場する。
振付家として有名なハインツ・シュペルリ Heinz Spoerliは、彼自身、ダンサーだった。
96年にチューリッヒ・バレエ団の芸術監督に就任し、以来、斬新でユニークなプロダクションを発表し続けている。
バッハの「ゴールドベルグ変奏曲Goldberg-Variationen」、全てを踊る。
この曲は、グレン・グールドの演奏で最も知られているが、リピートを含めて、2つのアリアと30の変奏曲を弾くと、演奏時間は優に1時間を超える。ダンスとダンスの間に僅かな間があるので、ざっと90分。
それを、まったく休憩を入れずに弾き続けたピアニストは、アレクシー・ボトビノフ Alexy Botvinov。ウクライナ、オデッサ生まれ。
19歳でモスクワのラフマニノフ・ピアノコンクールで優勝して以来、バッハ国際コンクール、クララ・シューマン・コンクールと世界的な評価を不動のものにしてきた。
今回のように、ソロならばなおさら。バレエであっても、彼の演奏を聴くことを楽しみに訪れる人々が多くいる。
シュペリエとは、90年代半ば、バレエ「スツェーネンSzenen」でシューマンを演奏して以降、卓越したハーモニーを生み出すパートナーとなっている。
チューリッヒ・バレエ団のダンサーは、誰もがソリストとして踊る実力を持っている、という精鋭をすぐるレベルの高さを自負する。
圧倒的にファンの多い、イェン・ハン Yen Hanは、繊細な感情表現が深く、美しい。溜息をつくほどのプロポーションから生まれる気品にうっとりとする、アリヤ・タニクパイェヴァ Aliya Tanykpayeva は、インペリアル・ロシア・バレエから移籍。サラ‐ジャンヌ・ブロドベックSarah-Jane Brodbeckは、快活で自由な空気が愛らしい、。
男性では、アルチュール・ババイャンヤン Artur Babajanyan、ブライアン・チャン Bryan Chan、アルマン・グリゴリヤン Arman Grigoryanなど。いずれも、超人的な跳躍力、目を瞠る静止力、天性の敏捷を兼ね備えた俊英たちだ。
最初のアリアが始まると、ゆっくりといくつもの影が動き出す。照明をぐっと落としたステージでは、それぞれのダンサーがそれぞれの音となって、記号を発信しているかのようだ。
舞台装置は、何もない。オーケストラピットにアレクシー・ボトビノフと1台のピアノ。照明、ダンサーの動き、次々と色を変えるレオタード。
足すのではなく、引く。ぎりぎりに削ぎ落とし、この舞台に関わる人間ひとりひとりの内面を引き出していくかのような作品。光と陰が交差する。
「私にとって、ゴールドベルグ変奏曲とは、通り過ぎていく人生そのものなのです」、とシュペルリは語る。男と女が出会い、惹かれあい、結びつく。別離がある。年齢を重ね、だんだんと成熟し、変化していく。そのように、互いに接しながら離れながら、時は過ぎゆく。
30の人生のバリエーションを踊るダンサーたちは、ときには、優雅にせつなく、気高く。また、ときには、アクロバットや体操競技を観ているかのような、「ダンス」で意表を突かれる。計算し尽くされた多様でエキサイティングなシーンが、目眩く目の前に現れては消えてゆく。
途中でソロが入るが、後半3曲、パ・ド・トュが踊られる。それらが何とも上品でしなやかで、夢のようなダンスだった。
ゴールドベルグ変奏曲は、第16変奏の「序曲」で、前半、後半が対比されるが、これをシュペルリは、「まるで孤を描くように」振り付けた。最初のアリアが繰り返されてゆっくりと終息するシーンで、舞台に再び静けさが運び込まれて来る。
不眠症のために演奏されたという逸話さえある長い曲。寝てしまうのではないかと心配だったが、驚かされ通しで、ずっと覚醒してい た。
長年高い評価を得ているプロダクションだと聞いた反面、「レオタードの色とライトがどんどん変わって、ダン サーが出て来て踊って、また次っていう感じ。それだけよ」とは、オペラ座常連の方。面白い。
あれだけのことを、それだけにも見せてしまう、省略。そのクラシックの基本の確かさと昇華。紡ぎだされる宇宙観のようなものが、やはり尋常ではないバレエ団なのだと思う。
Photo: Opernhaus Zürich / ©Peter Schnetz
2 comments
バレーの2枚目3枚目の画像が斬新で素晴らしいです。
これをみると是非本物の公演を見たいと思ってしまいます。
傑作を見せていただいてありがとう。
by roberto #
roberto sama
いくつか観ていると、ハインツ・シュペルリは、ほんとうに才能あふれる特異な演出家だと思います。あの2枚の写真は、絞り込むまでしばらく考えましたが、最も印象に残っているシーンから選んでみました。
気に入っていただけて、とてもうれしいです。ありがとうございます。
by Mieko Yagi #